Chapter Text
「……ん?」
睨むように鏡を見つめて、マークはひとり首を傾げた。
なんだか目が霞んだような気がして瞼の上からぐりぐりと擦る。何度見てみても鏡越しに見つめた自分の身体にはなんの変化も無かった。確かになにか張り付いているような感覚が、と眉を寄せて、違和感を抱いた背中を映し出してみる。身体を捻ってみても、くるりと回ってみても、縦長の全身鏡には何ひとつ変わったところは映らなかった。
平日の午後、旧スティーヴンのアパート、現自分たち三人の部屋でのことである。
仕事のあるスティーヴンやジェイクとは違って、今は休養期間だからと散々言い聞かされたマークは日中専ら部屋で過ごしていた。部屋でトレーニング出来るよういくつか器具を揃えたのもあったし、二人が新しい趣味にこれはどうだあれはどうだと買ってきてくれた様々な物が未だ崩している途中の山になっているからというのもあったし、なんとなくのんびりと過ごすのも悪くないかもしれないと思えるようになり始めたのもある。彼等とは違って金を入れられてないんじゃと居心地の悪い思いをしたのも初めのうちだけで、マークがそんな風に思っている素振りを見せる度にホワイトボードを引っ張り出して『休むべき理由』の講義を始める彼らによって今はほんのちょっと休んでも良いんじゃないかと思えていた。
とはいえ、やはり何もしないままでいるのも居心地は悪い。だからマークは今いくつかの家事を請け負っていた。食事関係のことは順に回してはいるものの、掃除や洗濯は自分に任せられている。やることはあった方が良いと学んだのも、ここしばらくののんびりとした暮らしの成果だった。
今日の分のやるべきことを早々に片付けて、なんとなく何にも手を付ける気になれず、ちょっとしたジョギングに行った後のことだった。軽くシャワーを浴びている途中から湧いた違和感に眉を寄せる。下着一枚の自分は変わらず鏡の中で間の抜けた顔をしていて、違和感のあったはずの肩甲骨のあたりはつるりと滑らかな肌を晒していた。
むずむずと落ち着かない感覚を抱きながら首を傾げる。鏡に背中を向けて眉を寄せたまま振り返った。厚い肉の覆う背中に出来るだけ手を伸ばしてみる。爪の先で引っ掻いた肌は薄く赤い跡だけを残していた。
やっぱり気のせいだったのかと不思議に思いながら、肩に掛けていたタオルで頬の水滴を拭う。なんとはなしに鏡に顔を寄せた。ぐ、と眉を寄せてみて、自然と緩みそうになる自分の表情に呆れて息を零す。今夜の予定がどれだけ楽しみだったのかを落ち着きのない表情がまるきり晒しているようだった。
天体観測をしようと言い出したのはスティーヴンだった。完全に見ていた番組の影響である。南極の空の特集は、一昨日の夜、夕食の後に三人で並んでソファに座ってテレビを見ていた時の特集だった。
興味が無かったと言えば嘘になる。ものすごくある。きらきらと瞬く空にすごいなと息を吐いてしまっていたし、若干身を乗り出してしまっていたし、同意を求めるようにそわそわちらちらと二人を見てしまっていたから、ひょっとするとマークの興味はスティーヴンには知られてしまっていたのかもしれなかった。
自分からは中々言い出すことが出来なかったから、それは良い案だなたまにはそういうのも悪くないなという顔をして頷いて、マークはそわそわと今夜の予定を立てた。即ち、屋根の上での観測パーティーである。天気は何度も確認してあったし、外に持ち出す用のクッションやブランケットもしっかり用意してあったし、あたたかい飲み物もいくつか揃えていた。
後はなにか摘まむものでもと思って――浮かんだのは、『誰でも簡単に作れる!』という文句のクッキーだった。
何か作ることが出来るかもしれないというのは、今のマークにとってなんだかとてつもなく魅力的だった。スティーヴンやジェイクの用意してくれた趣味候補の物たちの中に初心者向けの料理の本があったからというのもあるのかもしれない。順に回ってくる料理当番だってほとんど温めるだけだったり茹でるだけだったりするものばかりだったから、一からひとりで何かを作る経験というものは未だ無かった。
きらきらと瞬く星空の下、美味しいと驚く二人の顔が見られたら、それはきっとものすごく良いだろうなと唇を緩める。半裸で鏡に映る自分の顔も緩みきっていた。
適当に水滴を拭い、三人揃いのスウェットを着てキッチンへと向かう。こっそりと用意した材料のことで頭がいっぱいになって、マークはいつの間にか抱いた違和感のことを忘れていた。
棚のそばに掛けてあったエプロンを身に付けて後ろ手に紐を結ぶ。わけもなくちらちらと部屋の中を確認して、音を立てないよう上の棚を開いた。賞味期限の迫ったスティーヴン・クッキー缶・コレクションの奥から紙袋を引っ張り出す。ここのところ最近のスティーヴンのブームはクッキーよりもチョコレートだと踏んだ作戦は当たっていたらしく、缶の向こうに隠した紙袋に彼らが気が付いた様子は無かった。
誰も触れた気配の無い小さな紙袋に、よし、と小さく呟く。上手く事が運んでいることに得意な気分になって、鼻歌でも歌いたくなりながら机の上へと中身を並べた。
『誰でも簡単に作れる!』クッキーの元セットと、初心者向けの料理の基礎に関する本、いくつか買った型が照明の下でぴかぴかと光っている。昨日ジェイクに『あの本を見なかったか?』と聞かれた時はどうなることかと思ったが、『全然、全く、何も知らないな』という上手い切り抜け方によって彼はそうかと頷いていた。
ふふんと上機嫌で本のページを捲る。いつも二人は交渉系の物事はマークには任せられないと言っていたが、話題をはぐらかすことぐらいはなんでもないことだった。
予熱が必要な理由だとか『耳たぶのやわらかさ』とは実際はどんなものなのかだとか、『少々』とは一体何なのかについて事細かに書かれたページを確認して深呼吸をする。
スティーヴンとジェイクが帰ってくるまで三時間と少し。
事前に調べた調理時間からすると、十分余裕を持って準備出来そうだった。
ヴィーガン用のクッキーの元に書かれた注意書きを確認してボウルを取り出す。
マークの短い挑戦が、今始まろうとしていた。
そうして――結果として、クッキー作りはそれなりに上手くいった。彼らが帰ってくるまでに焼き切ることが出来たし、隠すことも出来たし、調理台の掃除まで終わらせることが出来た。焦げているところも生のままでいるところも無かったのは、ほとんど奇跡と言って良いのかもしれない。二人が帰ってきた時にエプロンを外し忘れていたことと、いつものハグとキスをした時にジェイクが鼻の頭を舐めたことは気になりはするものの、上手く隠すことが出来ているはずだった。
どうしてか頬の内側を強く噛んだような彼らの渋い顔を不思議に思いながら、二人の買ってきた夕食を摂る。星を見る時に何か用意したいね、とは初めからスティーヴンが言っていたから、量り売りの食べ物はいつもより少ないものだった。今夜のことを楽しみにしていたのは自分だけではないのだと二人の思いが伝わってくるような気がして、緩みそうな頬を抑えてスティック状の野菜を咀嚼する。まずいなと意識して顔を顰めた。ここのところ最近、感情のコントロールがきかなくなっているような気がする。夜に星を見るのが楽しみで顔が緩みきっています、だなんて、一桁の子どもでもしないようなはしゃぎ方だった。
「実は、こういうのも買ってきちゃって」
スティーヴンが照れきった顔で言い出したのは、夕食を終えて各々がそわそわと準備をした後のことだった。
マークにどうにかしてニットの羽織りを着せようとするジェイクと、ブランケットがあったら必要ないだろむしろお前の方が腹巻でもした方が良いんじゃないかこの前腹を壊してただろと腹巻をぐいぐいと押し付けるマークが格闘してひっくり返った瞬間だった。
ソファの上で転がって、すぐ隣で逆さまになったジェイクと顔を見合わせる。腹巻だけは勘弁してくれとどうしてか泣きそうな顔をしていた彼は、数秒の沈黙の後なにやら重たげにこっくりと頷いた。
『こういうの』と新しい紅茶の缶を掲げたスティーヴンの隣に、さっと前髪を整えたジェイクが立つ。黒のスウェットを着た彼はそれでもなんだかクールだった。なんだそのきらきらは何処から出てるんだと思いながら、同じぐらいに得意気な顔をしたジェイクを見上げる。「実は私も」と言った彼は、どこからか新しいコーヒーの入った紙袋を取り出して照れたように顔を逸らした。
「この紅茶、クッキーにすっごく合うんだって!」
「このコーヒーだってそうだ。なあマーク、コーヒーとクッキーはよく合うと思わないか?」
「あ!その聞き方はずるいだろ。ね、マーク、紅茶とクッキーもよく合うよね?」
「あ、ああ、そうだな……?」
戸棚のクッキー缶を思い浮かべながら頷く。
遅れて焼いたばかりのクッキーの山を思い出して、慌てて飛び起きた。どう出せば良いものか迷っていたが、タイミングなんて今しかないだろう。賞味期限の近いクッキーたちには悪いが、今夜はあの歪なかたちの出来たてクッキーたちを皿の上に乗せてやりたかった。
白い皿を取り出して、丸いもの、星のかたちのもの、照れくさくてひとつしか作れなかったハートのかたちのもの、それから不格好にも彼らのイニシャルを形作ったものを乗せていく。最後に残った鳥の頭のようなものを摘まんで、少しだけ迷って彼らの方へと視線を向けた。
窓の外を見て何か話すスティーヴンとジェイクに気付いた様子は無い。このまま持っていくのもなんだかはばかられて、勢いをつけて小さなクッキーを口に放り込んだ。
ほんのりと優しい甘さに、上手くできて良かったと目を細める。ぱたぱたと駆けてきた彼らに咄嗟に顔を引き締めた。咥内に残った甘さを誤魔化すように唾を飲み込み、彼らを真似て白い皿を二人の前に掲げる。オオ、と手を叩いて盛り上げてくれた二人は、どうしてかクッキーがマークの手によって作られたものだと察しているようだった。
「全部スティーヴンも食べられるものだからな」
「わ、嬉しい!チョコチップ入りのと、ココアと、これは……」
「クルミだ」
「こっちの……その、ものすごい色のものは……?」
「チョコミントだ」
「……チョコミントってこんな色だっけ?」
「……青いな」
「いつの間にかこんな色に……」
「い、いつの間にか」
おののいたような顔をしたスティーヴンが、真っ青なクッキーをひとつ摘まみ上げる。こっくりと頷いて、マークも食べ物では中々見ない色を見下ろした。新発売と書かれたパッケージには、確かに緑に近い可愛らしい青色のクッキーが写っていた。少し前にジェイクがチョコミント味のアイスクリームを美味いと言っていたから、これも好きかもしれないと一緒に買ったものだった。混ぜすぎたのか、焼きすぎたのか、どうしてか青にしか見えない生地に眉を寄せる。確かにこの色ではそう食欲を刺激されないかもしれないと思って、皿を半周回転させた。
青色の山を自分の方へと寄せてから、俺が食べると言おうと口を開く。それよりも先に青いクッキーを照明に透かしていたスティーヴンが大きく口を開けた。ぱく、と飲み込まれた丸いクッキーに驚いて瞬く。もごもごと口を動かしたスティーヴンは、なにやら大きく頷いて腕を組んだ。
「お、おい、」
「私もひとつ」
「あっ」
マークの間の抜けた声に目を細めて、ジェイクがひょいぱくと口に放り込む。謎の青いクッキーはあっという間に二人に飲み込まれてしまっていた。
「ウン、これ、美味しいよ」
「ああ。クッキーでは初めて食べたな」
「そ、そうか……?」
「マーク、君もひとつ……どう?」
スティーヴンの手が新たなクッキーを摘まむ。考えるよりも先に釣られたように口を開いて、マークは気付けば放り込まれた青いクッキーを咀嚼していた。
ほんのりとチョコミントの味がするクッキーは、確かに美味しかった。僅かに焦げたような苦味が広がるのは惜しかったが、危惧していたような謎の味わいは全く無い。ほとんど既製品のような粉を混ぜて焼くだけなのだから当然と言えば当然だったが、自分のせいで姿かたちの変わってしまったものを彼らが褒めてくれるのがなんだか嬉しかった。
「美味いな」
「だよね!」
何故かものすごく得意げな顔をしたスティーヴンがサムズアップをする。つられてこくりと頷いて、何でそっちがそんな顔するんだと吹き出すように笑った。
どうしてか唇を引き結んで目を細めていたジェイクが息を零す。じわじわと胸の奥が熱くなるような表情に気を取られている間に、二人はすっかり飲み物の準備を終えていた。
トレイに白い皿とクッキーの山を乗せて、ぶつかり合うように窓辺へと向かう。あちこちに散らばった本を踏まないように身体を傾けて窓を開けた。机の上にトレイを置いて、片足で窓枠を乗り越えるように外へと出る。体勢を整えて部屋の中へと手を伸ばすと、心得たとばかりに木の感触が指に押し付けられた。
以前ジェイクが作った小さな木の机を屋根の上に置く。滑り止めと固定用のかな具がついた机は、屋根の上から転がり落ちないようにと斜めに削られた脚が付いていた。慣れた手つきで固定して、もう一度窓へと手を突っ込む。次に渡された皿に分かってるなと笑ってしまって、慎重に机の上へとトレイごとクッキーを置いた。
窓の方へと戻り、もう一度手を伸ばす。こちらを見上げていたスティーヴンが嬉しそうに目を細めた。先に渡されたマグをクッキーの隣に置き、いつもと同じ調子でスティーヴンの手を掴む。視線でタイミングを合わせて引っ張ると、スティーヴンは「わっ」とひっくり返ったような声を上げて屋根の上へと転がり出た。
急な勾配ではあるものの、屋根の上に出るのはこれが初めてではない。驚いたような声をあげた本人も、別に危機を感じたからというわけではないようだった。
ブランケットを身体に巻き付けたスティーヴンがよろよろと屋根の上を登っていく。比較的バランスの取りやすい机の隣に腰を落着けた彼は、「やれやれ」と口で言ってわざとらしく額の汗を拭った。
大袈裟なリアクションがおかしくて、笑ってしまいながらもう一度窓の中へと手を突っ込む。渡されたクッションをスティーヴンへと流すのを三度繰り返して、「ん」とジェイクに手を伸ばした。
赤い目でじっとマークの手を見上げた彼が、ほんの少し唇の端を上げる。両手に持っていたふたつのマグを窓辺の使えへと置いたジェイクは、しっかりとマークの手を握って危なげなく窓枠を乗り越えた。
部屋の中へと上半身を突っ込んだ彼の姿を確認して、スティーヴンの隣へと上る。後からやって来たジェイクは器用にふたつのブランケットとふたつのマグを持っていた。悪いな、と受け取って、三人で並んで座る。指先をあたためるマグを見下ろして、部屋に戻る面倒が減るようにとなみなみと注がれたコーヒーに小さく笑った。
冬の近付いた夜の外気は、思っていたよりも冷えていた。すぐ隣からジェイクの『だから言っただろう』の視線を感じて肩を竦める。反対側からスティーヴンが心配そうに見る気配を感じとって、「大丈夫だって言ったろ」と眉を下げた。
彼らはどうやら、マークが先月体調を崩したことを気にしているようだった。
先月どころか先々月もその前も同じようなタイミングで崩していたから、気になって仕方がないのかもしれない。原因不明の体調不良についてマーク自身は軽い風邪だろうと思っていたが、彼らは自分が思っていた以上に不安を抱いていたようだった。
マークが初めに体調を崩したのは、スティーヴンに自分の存在を気付かれて共に暮らすようになった直後のことだった。その頃はまだひとつの身体を共有していたから、実際に体調を崩していたのは『マーク』というよりも『スティーヴンとマーク』だった。いや、顔を合わせていなかったというだけでジェイクだってずっと居たのだから、『スティーヴンとジェイクとマーク』が正しいのかもしれない。それなのに二人がやけに心配するのは、各々の身体を得てから体調の崩し方が悪化したのと、マークにだけその症状が現れるようになったからなのかもしれなかった。
『休養期間』とやらももしかするとその体調不良に関連してたのかもしれないな、と思いながら、やわらかなクッションに身を沈める。体調不良と言っても身体がやけに重くてぼんやりとしてしまったり手足に力が入らず膝をついてしまったり、謎の眠気に襲われて半日眠ってしまっていたりとその程度だったのだから、マークとしてはそこまで気にすることはないんじゃないかとしか思えなかった。
コンスと契約してすぐの夜の方が、ずっとひどかった。あの頃マークは無数の白い影に追われる夢ばかり見て碌に眠れなかった。悲鳴を上げて飛び起きたと思えば知らず自分の腹を抉ってしまっていたこともあったし、捥げた自分の片腕を持って突っ立っていたこともあった。コンスが言うには『スーツとあまりに相性が良く、癒着しようとしているのに身体が抵抗している』。目が覚める度にグロテスクな室内を見る毎日にうんざりしていたあの頃思えば、多少の体調不良は許容範囲だとしか思えなかった。
スティーヴンもジェイクもあの頃の記憶は無いようだったから、不安に思うのも仕方がないのかもしれない。満月の日にばかり訪れる体調不良に、マークはある程度予測がついていた。あれにだって終わりが来たのだからそのうち収まるだろと毛布を身体に巻き付けて、「大丈夫だ」と肩をすくめる。不満そうに唇を尖らせたスティーヴンとジェイクは、どか、どん、とわざとらしくマークに肩をぶつけて体重を寄せた。
左右から伝わる体温にぽかぽかと胸の奥があたたかくなる。緩みそうになった頬を誤魔化すように身じろいで、マークは手にしたマグをゆっくりと傾けた。
舌の先に広がる苦味を感じながら星を見上げる。マークの視線を追ったようにまつ毛を上向かせたスティーヴンが、「あれはポラリス、」と星をつつくように指を揺らした。
「それからあれがアルゴルで……はくちょう座も見えるはずなんだけど。あれかな?」
「どんな形だ?」
「こういう……」
ジェイクの声に視線を落としたスティーヴンが、マークの腕に星のかたちを描く。くすぐったさに笑ってしまいそうになるのを堪えて彼の指を追った。
とんとんと肌を叩くリズムだけでは今ひとつスティーヴンの探す星座のかたちが分からず、ジェイクと顔を見合わせて首を振る。「もう」と唇を曲げたスティーヴンが端末を取り出した。
彼が突き出した画面を見下ろして、ああ、北十字星のことか、と空を見上げる。いつだったかにコンスと見上げた夜が頭によぎった。自分の知る星座とコンスの話す星についての物事を並べて、ぽつぽつと話した夜が遠い。何もかもを覚えているわけではなかったが、あの夜のコンスがいつもよりゆっくりと話していたことはどうしてか記憶に焼き付いていた。
「ああ、あれじゃないか?」
「わ、ほんとだ。結構光って見えるねえ」
のんびりと交わされた会話につられて、空を指したジェイクの指先を追う。スティーヴンの持つ端末と見比べて小さく頷いた。「これは?」とスライドされた画像をジェイクと二人で覗き込み、競うように空を探す。いくつか星を見つけて、ジェイクの作った創作星座や、競うようにスティーヴンが話し始めたオリジナルエピソードに笑って、楽しいな、と自然と思いながらマークもひと言ふた言エピソードに付け足した。
「これはなんだ?」
マークに伸し掛るようにスティーヴンの端末を覗き込んでいたジェイクが、ふいに現れた画像をつつく。なんだなんだとスティーヴンと覗き見て、宇宙に青く広がった靄のような画像に首を傾げた。
鮮やかな色のついた靄は、確かに見たことがある。宇宙のイメージの一部でもあったし、宇宙が舞台の映画ではよく見るものだった。
だからと言って、詳しく知っているわけではない。そういえばこれは何なんだと思っている間にスティーヴンの指が画像をタップしていた。
「ええと――ネビュラ、ガスや塵の塊だって」
「星の塊じゃないのか」
「昔はそういうのも一纏めにされてたけど今は違うみたいだ。星雲、重力でまとまった天体……」
「星の残骸……」
「っていうより、超新星爆発の結果生まれたガスって感じかな。綺麗だね」
純粋に見蕩れている様子のスティーヴンに上手く返せなくて、曖昧に頷く。マークの頬のそばに顔を寄せていたジェイクが「綺麗だな」と小さく頷いた。
二人の体温を感じながら、爆発の後に残された星の残骸を見つめる。限界まで生きた星が、最後の煌めきと起こした爆発の結果残されたものたち。それはなんだか、マークの喉にざらついた引っ掛かりを覚えさせていた。
「ここからは見えないけど」
残念、と肩を竦めたスティーヴンの明るい口調に我に返って、言葉を詰まらせながら相槌を打つ。マークの膝の上に伸し掛るようにジェイクが身を乗り出した。「これもいいな」と画像をスライドさせた彼が、赤ピンクの星雲を指さす。「これは?」「これはどうだ」と二人が順に鮮やかな靄を指していくのをぼんやりと見つめながら、マークはじわじわ訪れた眠気に抗えずジェイクの頭の上に顎を乗せた。
「ひぇ……!!」
「あ、わ、悪い」
「ああ、いや、全く構わないんだが……」
「それは酷だよ……」
「構わないからな!」
「酷だよ、マーク……」
耳まで真っ赤に染めたジェイクが、マークの膝の上に身体を伏せる。巨大な猫のように丸くなったジェイクに戸惑ってスティーヴンへと視線を向けた。どうしてか同情に満ちた目をした彼が、ふ、と息を吐く。そんなにかと思って慌ててジェイクの肩を掴もうとすると、マークを押し潰すように右隣からスティーヴンの身体が凭れ掛かった。
「っ、おい!」
「いいからいいから」
「ジェイクが、」
「いいからいいから」
「……いいから」
「そ、そうか……?」
のんびりと言い放ったスティーヴンと、唸るように言った割に動こうとしないジェイクに戸惑って、二人と重なったまま身体の力を抜く。多少無理な体勢ではあったが、上下から伝わる体温はマークに益々強い眠気をもたらしていた。
「あ、そうだ。マーク、クッキー食べていい?」
「ああ」
「ちょっと待て、そこで食べるということは……」
「あれ、ごめん、もご、零れたかも」
「ウワーッッッ!」
ジェイクの悲鳴に吹き出してしまいそうになりながら、ぱらぱらと落ちたクッキーの欠片を払ってやる。マークの更に上、スティーヴンから零れ落ちる欠片にすんすんと鼻を鳴らしたジェイクは、それでも避けることはせずマークの膝の上に転がったままだった。
「ごめんごめん」と軽く服を払ったスティーヴンが、ジェイクとマークごと抱き込むようにブランケットを巻き付ける。三人でひとつになったような感覚がなんだか心地よくて、マークはジェイクに顎を乗せたままうとうとと意識を微睡ませた。
「これ美味しいよ。ジェイクもひとつ食べる?」
「……ココア」
「了解」
声をひそめているのにも関わらず、大きく聞こえた咀嚼音にふふと息を零す。スティーヴンもジェイクも、マークが用意したクッキーをそれなりに気に入ってくれているようだった。
眠気に襲われながら瞼をこじ開けて、大きな白い皿を目で探す。スティーヴンの向こうに置かれた皿はあと少しで空になりそうだった。あんなに作ったのに、と驚いて、あたたかなものを感じて唇を緩める。二人の声はいつの間にか曖昧にしか聞こえなくなっていた。
片手に握っていたマグが抜き取られるのを感じて、むにゃむにゃと言葉にならない声で何か返してゆっくりと瞬く。そういえば背中に覚えた違和感について話すのを忘れてたな、と思って、そんなことどうでも良いかと大きく欠伸を零した。
つい先程まで鮮やかな星雲の画像ばかり見ていたせいか、瞼の裏がちかちかと輝いて見える。赤や黄色、緑の煌めきは到底宇宙の塵だとは思えなかった。
あんなに綺麗なら、いっぱいいっぱいになって破裂して、塵になってしまうのも良いのかもしれない。
なんだかそれは、理想の煌めきでもあるようだった。
鮮やかなネオン・ブルーが、スティーヴンの指の下で渦巻いている。
スティーヴンもジェイクも、あの塵の塊に目を細めて、綺麗だねと遠くから関わりのない何かを語るように囁きあっていた。
あの塵の塊なら、二人に影響を与えてしまうこともきっと無い。
本当は何も残さないのが一番だと分かっている。それでもと思ってしまうのは、きっと今のマークに余裕が生まれているからだった。
極めてポジティブな想像の中で、かたちを変えた自分が二人に手を振る。
あんなふうに彼らの記憶に残って終わるのなら、それが良かった。