Chapter Text
サヒやー、と呼びながらジェヒョクが顎を頭のてっぺんに乗せてきたので、舌でも噛めばいいという気持ちでアサヒは首を上下に動かした。
「や、めえや」
ジェヒョクは声を震わせて言うと、アサヒの頭から顎を退ける。ホテルの備え付けのボディソープがあたりにふわっと香り、自分もきっと同じ匂いをさせているのだろうに、他人の身体を介した方がよく分かるのは何なんだとアサヒは思う。制限の多い生活を送る中で、アサヒにとっての他人というのはもっぱらジェヒョクで、シャンプーも香水もジェヒョクにつけさせた方が匂いの輪郭がよりくっきりするのだった。
「まだ濡れてんで」
湿った髪の毛に指が差し入れられる。シャワーを浴びてバスローブを羽織り、大きな鏡の前でジェヒョクが置いていったドライヤーを手元に引き寄せたところから、アサヒの意識はぷつりと途切れていた。
「乾かしたろか」
返事を待たず、ジェヒョクは白いドライヤーのコードをくるくるほどいていく。
「いいよ俺は」
もうほとんど乾いとるから、とアサヒは遅れて言い返すも、ぶおおんと轟音が耳元で鳴ると反射的に目を閉じてしまう。当たり前だが、コンサートをすると疲れる。ステージが広く、たくさん走り回らないといけないドーム公演は余計にそうだ。
ジェヒョクの指がアサヒの髪と頭皮を優しくかき回し、すっかり乾かしてしまうまでには五分もかからなかった。重い腰を上げて交代を申し出たものの、ジェヒョクはアサヒをベッドに追いやり自ら髪を乾かしはじめた。結局、最後までアサヒの出る幕はなかった。
「……こまうぉ」
ダメ押しのように差し出されたペットボトルの水を素直に受け取る。冷えた液体を存分に流し込むと思考がいくらか晴れてきて、コンサートの最中から気になっていたことも思い出した。考える前に口が動いた。
「お前さ」
再び鏡に向かっていたジェヒョクは、ん、と振り返って言った。
「今日のさぁ」
MCの、と言葉を継いでも、相手は半笑いの表情を浮かべたままでいる。日本ツアーの初日ということもあり、普段よりだいぶ短かったMCにおいて、二人が直接会話をした場面はおそらく一つだけ――韓国ドラマのパロディVCRを流した後、自分とハルトのどちらが本命なのかとジェヒョクがアサヒに詰め寄った、あのくだりだけだ。だからピンとこないはずなどないのに、何とぼけてんねんドアホ、と思わず日本語で毒づく。
「はいはい分かっとるって」
ジェヒョクは笑い、ちっとも怖くなさそうに尋ねる。
「怒ってんの?」
「怒ってへんけど」
台本になかったそのやり取りについて、アサヒは事実怒ってはいなかった。トゥメは喜んでいたみたいだったし(ジェヒョクがわざわざ強調せずとも、自分たち二人のコンビは人気がある)、咄嗟の返しも悪くなかったと思っている。角を立てずに笑いは取る、いかにも「日本的」な振る舞い。
「怒ってへんけど、ハルトを巻き込むのはやめえや」
「何で?」
今度はとぼける風でもなくジェヒョクが言った。
「ルトが抜かれて、皆面白がってたやんか」
アサヒは見逃したのだが、ジェヒョクに引き合いに出されたハルトが気まずそうに顔を伏せた姿を、カメラはばっちり抜いてスクリーンに映したらしい。トゥメは大いに笑ったらしい。
「面白けりゃいいってもんでもないやろ」
面白ければ何でもいいのだと言いたがる関西人の血を抑え込み、メンバー間で比べんのはちょっとアレやろ、よくないやろとアサヒは続ける。色んなファンがいるのだから、解釈の幅を狭めるような言動は避けておくに越したことはない。まあなあ、お前ら二人も人気やからこその映像ではあったなあ。ジェヒョクはいくらか理解を示しつつも、
「でもなあサヒ」
とベッドに膝をついた。そのまま両手もついて顔を近づけてくるので、小さく揺れるアサヒの視界はほとんどジェヒョクに埋め尽くされてしまう。
「他人と比べないと分からんもんやで、立ち位置なんて。俺ら十人もおるんやから」
目元に罹った前髪を、自分のものではない指がかき上げる。けれどきれいに乾いた髪は、後ろに撫でつけられてもさらさらと滑り落ちてきた。
「……ハルトより好き、言われて嬉しいんか自分」
どちらのものともつかないシャンプーの香りを吸い込みながらアサヒは尋ねる。
「当たり前やん」
一も二もなくジェヒョクは請け合い、ふっくらとした唇の端を吊り上げる。日本出身者同士の繋がりは、ジェヒョクとのそれとは少し違って一概には比較できないのだが、どうしたって強固になる。
へえ、とアサヒはつまらない相槌を打った。それだけでは足りないような気がして、でも何を言えばいいかは分からなかったから、長い前髪を丁寧に耳にかけた。湿った空気の中で、ふ、とジェヒョクがやわらかく息をついたのが聞こえた。
「アサヒやってさ」
自分の眉間に刻まれているのであろう皺を、ジェヒョクはぐりぐりと押して言った。
「ジョンウより大事、って俺が言ったら嬉しいやろ」
アサヒは思わず噴き出した。ジョンウは確かに、ジェヒョクとは本物の兄弟さながら仲がよく、ここで引き合いに出すべき相手に違いなかった。しかしその名前には、なぜか笑いを誘う力があった(本人に伝えたら確実に怒り出すだろうが)。
可笑しい、と腹を押さえてひとりごちる。その上めちゃくちゃ的外れだ。怪訝そうにしているジェヒョクに向かって、
「嬉しないわ」
そんなんとっくに知ってんねんもん。
